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性欲を湧かそうとして失楽園を始めて観たけど全く湧かなくてむしろ爆笑した。
2日後に半年ぶりの生理がドバドバ来た。
性欲が湧かない。エロい映像を観ても全く湧かない。これが皮膚科に貼ってあったリビドー減退か。生理がずっと来ていない。まさこにもらった強いホルモン剤も効かない。これは女性としての生命の営み終了のメッセージか。最近いちばんよく笑ったのは上司の提案書にアイコラみたくウェスアンダーソンがのっかってたのを見た時くらい。相棒の会社の愚痴が以前より更に頭に入らず、何も聞かずに相槌を打ちながら串と酒を流し込んでいる。綺麗な女でいたいという願望が減った。米袋に穴が空いてそこから米がさらさらと規則正しい音を立てて一瞬のうちに流れていったように、僅かながら残っていた生きる意味が流れていったのかもしれない。一度幽体離脱したい。
自分が抜け殻過ぎるので、せめて何かに尽くそうとするしかないけれど何か虚しい。多分傷つくことが必要なんだと思う。避けているけれど。
身代わりになったり、守ったりするのがきっと好きなので、前世はエアバッグだったんでなかろうか。
できれば一瞬だけでも良いので魂が還るべき所へかえっているのか確認したい。
目を閉じていれば叶うだろうか。
このような心持ちなのでなかなか生きる営みに身が入らない。
子どもの頃ドラクエをしていた時のような、母と外食に行った時のような、ミッキーマウスに抱きしめられた時のような、兄がかける知らない曲をこっそり聴いた時のような、底なしのときめく気持ちはどこへ葬られたんだろう。
失楽園の中でアダムは内なる永遠の楽園を見つけた。どうやって見つけたのかサシ飲みで聞きたい。
母は兄に自らの分身を与え、一体化したんではなかろうか。死んでからの10日間。そこで兄は母と過ごし、そのことをやっとどこかで理解したのか。私はそんな立派な母になれるんだろうか。母が燃やされる前日、棺を開けて夜通し母と一体化した。警察では驚いた死臭も、母の匂いだと思うと心安らぐものとなった。兄が失った前頭葉はあまりにも大人を残酷な子どもにする。いつ会っても不安な気持ちになる兄は何故そんなにも物に固執し生きていくのか。私よりもよほど生きることに対して貪欲な気がする。
魂はどこに行くのだろう。
お空や宇宙などではなくて本当は実家や周辺などにそのままふわふわと漂っているのではないだろうか。
そういうものが私たちの日々の気分や調子を左右しているのではないだろうか。
良い行いをすると報われ悪い行いをするとバチが当たるというのは全てなくなった身近な魂の念によるもののような気がする。
それと交信できれば一番良いのだけれど、残念ながら私にはシャーマンの能力が備わっていないので想像するしかない。
もっと抱きしめておけばよかった。
映画の趣味が合わない奴と映画を観るたびにすり減っていく。
無言でも離れていても、精神が繋がっていることが重要。
人は楽すると不幸になるのに、何故楽したがるのだろう。戦わずして幸せを噛み締めることはできないのに。現代人は傷つきたくない精神の塊で、それが正と罷り通ってるから仕方がない。かく言う自分も社畜にも家畜にもなりたくないあまり積極性は低い。しかし、ロックオンした相手には献身的過ぎるのがむしろ欠点だ。
母は海外で働き幸せすぎて転職したという。なんという冒険心なんだろう。若い頃の母にリアルで会えたら良いのに。きっと一緒に連れ立って旅をする。
暗くならないと何かを外に出す力が出ないのは何故だろうか。暗くいる方が好きなんだろうけれど、鬱病ほどにまで暗くなると本当に脳の芯が絶望で埋もれて鈍くなるような感覚がするので、それを過ぎた辺りからでないといけない。
美しいものには全て切なさと刹那がまとわりつく。それがないものは美しいとはいえず、見せかけの表面的な美しさに過ぎない。それを分かち合えない人と過ごさなければならないのは苦痛でならないが、ある意味自分だけの世界を保てるという面では良いのかもしれない。
しかし、絶頂の瞬間を共有できないと、感情の糸くずがボロボロとほつれて、やがてなくなっていく。
かわいそうだね?と思うのはきっと本来悪で醜い感情。しかしかわいそうでなく剥き出しの感情でストレートに向き合えば、簡単に人が1人死んだりもする。そうならないための自己犠牲を払うために、可哀想と言う言葉を多用する。けれどそれは何の治療にもならず、まやかしの湿布を貼る程度。
テルマ&ルイーズでいうならできることならテルマになりたかったけど、ルイーズにしかなり得ない性だと思う。 けれどルイーズのような私にとって、私のようなルイーズにとって、テルマのようにどうしようもなく自分勝手で弱く、不器用だけど心に素直でいたい、というほっとけない相棒は刺身に対する醤油、たこ焼きに対するソース、一人きりのクリスマスOLに対する元カレくらいに必要不可欠な存在と感じる。
寒いのがきらいなのは淋しいから。
Björk, 2001 | © Jean-Baptiste Mondino
百万年書房でバイトしたいな…
AIやさしいな
この人の展示会ご招待付きでお願いします。
Louise Bourgeois: Crouching Spider (2003)
私も焼き菓子のバターではなくこういうバターの方が好きです。
yeah
箱男を気にするものは、箱男になる。
脚の綺麗な女は箱男を気にしない。
いつも透明で薄くて、だが丈夫でしなやかな箱男を身に纏っている。
だから箱男を救い出すことができる。
磯崎新先生。
展示室を出ると、壁面はガラス張りになっていて、何だかぼんやり流れ落ちる水を眺めてしまうのでした。
屋上から眺めた図。向こう側にはどうやら茶室があるらしい。
底には色とりどりの石が敷き詰められているようで、まるでタイル張りのようになった水面がきれいです。
お世話になってる作品。 素敵です。
木になった亜沙
著者:今村夏子|装画:城井文平|装丁:城井文平|発行:2023年4月
この映画絶対に観たい。
ひいばあちゃんの顔と名前を初めて知った。 10人の子どもを産んだようには見えない小さな体だった。
トグルスイッチが胸にふたつ付いている人がいた。
頭の声のスピードをどうやって一時停止して拾い上げてるんだろう
命を削って書いている夏子さん。
In Japan, many are intrigued solely by appearances of foreigners. Even before a single word is uttered, expectations rise unilaterally, envisioning the promise of new cultures, ideas, and information not typically found in Japan.
Yet, upon speaking in Japanese, a faint tinge of disappointment often flickers alongside surprise in their eyes. Hence, they often liken it humorously to talent who can't speak English, eliciting subtle laughter.
"Your father is a foreigner? And your mother? Japanese, huh? So where is your father from?" "Lebanon... where's that again? Ah, I see." "You have an older brother? He must be really cool." "Oh, your brother is Japanese? I see." Knowing this, I've never been to Lebanon, my father separated from my mother when I was five, and my brother, my half-brother, has eyes as thin as bean sprouts, so there's no thrilling revelation as expected. Thus, I tend to avoid initiating introductions about myself. Simply introducing myself often leads to others feeling obligated, disappointed, or finding me devoid of a character like a celebrity, leaving me tired of being myself without a set persona. I often find it impressive when I can strike up a friendly rapport with the bartender at a drinking spot.
Despite presenting a positive front, deep down my mind's core resembles a stubborn mass of negativity like a pineapple, and I have no intention of trying to captivate a man by portraying myself as an elegant woman.
While I fear gaining weight, I seek connection based on mutual feelings rather than appearances.
かこよ
Rei Kawakubo | © Harrison Tsui
コンビニ人間をやっと読んだ。 少しめくっただけで読みたくなり、買ってすぐ一気に読んだ。 大人になってからのわたしはなかなかの面倒くさがりで我慢に弱いので本の好き嫌いも激しくなった。 だから冒頭でなんとなく読む気になれないことばかりだった最近ではめずらしいことだった。 大人になってから多いことだけれど、その時々に強く思っている事に関連した作品に出会う機会が多い気がする。この作品を読みながら、普段の自分の考えと重ね合わさずにはいられなかった。 ヒロインとは考え方は違うけれど、根底で同じ部分も多い気がした。 そして、ヒロインのように細胞レベルで生きたいとも思った。 そのようにして生きられるのなら、仕事がコンビニでも何でもいいのだ。大多数と同じ人生を楽しむのもいい。 しかしそんな生き方で一見華やかに見えても、異質なものを排除する者は、人生を本当の意味で生き得ていないのだ。 ステレオタイプ、義務教育、メディア、ネット、そういったものによる刷り込みでインスタグラムよろしく充実して輝いた人生を歩んでいると勘違いしているだけなのだ。 インスタグラムで華々しい暮らしをアピールしていようがなかろうが、本当に輝いた生き方をしている者はみな、異質をありのまま受け入れることができる心を持っている。そう考えると、自分もこれまでの人生において何度も相手に「普通」と言う名の価値観を押し付けていた。 その方が相手のためになると思い込んでいたのだ。 細胞レベルで相手に声をかけるのは良い。 しかし自らの芯もなく、どこかで聞いた言葉を無感情に浅はかに発するのはもはや犯罪だ。 何のために生きているのか。 何が普通なのか。 変わってしまった相手を元に戻そうとすべきなのか。 憑霊や洗脳ならば、それは本人の意識が抑圧されているため引き戻してあげるべきだ。 そこにしっかりと脳みそが存在しているから。 しかし、なくなってしまった脳みそはもう2度と元には戻らないのだ。 けれども、本人は本人なのだ。今の本人がもう一度「生まれた」のだ。 ヒロインは仮初めの幸せを噛み締めている人々よりも、よほど熱く生きていると感じた。 全身で音を聞き、細胞で感じていることに全力を傾けているのだ。 それは本人自身がもう一度生まれた、と感じることができたからこそだろう。ヒロインが幼少時から自己を抑圧するよう徹底していたのは、決して己の身の保身ではない。 家族を悲しませたくなかったからだ。 ヒロインが「コンビニロボット」のような存在であったならば、もっと傲慢で、無感情で、諦めた負の感情が優っていただろう。 しかしヒロインは、同僚やお客への気遣いも抜かりのないコンビニ人間、である。 たとえ名声や子孫を残さなくとも、人間の宿命は全うしている。
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