私は自分の生活を振り返った時、ポストに放り込まれた整体や新聞購読やマクドナルドのチラシを捨てたことを忘れている。そうやってどんどん色んなことを取りこぼしていくような気がする。
最後に書いた日記の内容を覚えていない。特段書くこともなく、というよりも何かを誰かに知らせることの意味を全く見出せず、近頃インターネットには全然いない。前回、読書に関することを書いたかもしれない。そうか。読書は相変わらず捗っている。電車の中、寝る前、ほか。2014年に買った本が全然面白くなかったのは、続きものの2巻だったからだった。1巻を買って読んだ。痺れるほど面白かった。そういう季節を過ごしている。12月。
夏にリペアに出したカメラを久しぶりに持ち出したら、1本目で巻き上げダイヤルが回らなくなった。2回リペアに出したら同じカメラをもう一台買えると思うと腰が重い。とはいえ、買い替えるのも躊躇している。なんだかんだ十年は持ち続けてきたものだ。愛着もある。年数が経てばガタが来るのは仕方のないことで、その度に治療が必要なのは有機物と同じだ。この頃そういう諦めを理解しつつある。とはいえ私のカメラは私より既にずいぶん長生きだし、寿命というものがあるにせよまだ当分先のことだと楽観視している。
寒くなったと人は言うが、東京は全然寒くない。そういう街をくそったれと思いながら生きている。小説を書こう。短歌を詠もう。疲れ果てているけれど、やれることをやっていく。
半年ぶりの金沢は雪のしんと冷たい街をたくさんの人で賑わっていてとても良かった。裏日本の実際はなんといっても冬にある。水分の多い雪が延々と降っては積り、積もっては緩んで凍る。鬱々とした曇天が続く。それに加えて金沢という都市は天候が目まぐるしく変わりすぎるのが面白い。新潟と金沢はよく比較の題材にされるが、金沢に比べれば新潟はもう少し天候がいいと思うし、城下町と新興の平野ではそもそもの地盤が似ていない。それでも空気感のようなものは似ている。あと金沢には大和があるのが新潟市民的に郷愁を誘う(富山にもあるらしいが)。
東京に戻ってきたら雪はもちろんないし太陽は明るいし人間ってこんなにいるのかという驚きで不思議な気持ちになる。空気の乾燥に手指があっという間にささくれてうまく動かない。色んなことを考える。今年ももう終わる。
暗闇に明滅する光を永遠に眺めていたい。永続性なんてこの世のどこにもなくても、この夜はまだ終わらないんだって今だけはそう思える。
昨日は切り干し大根の煮物、キャベツの和え物、ピーマンのきんぴらとつくねを作り、鶏肉を蒸した。まだ使わない豚肉には醤油をしておく。今日は余っていた鶏肉と豚肉を合わせて挽き、タコミートを作った。昨日の買い物はこれで大体手を入れたことになる。魚の干物は食べたい日に焼けば良いし、まだある野菜はぼちぼち副菜に使っていこう。
このところ料理をそれなりにしている。しかし料理が捗る時はだいたい、書いたり、書くことについて考えたりすることから遠ざかっている時なのだ、ときゅうりを切りながらふと思う。私にとって料理が楽しいというのは一つの状態であり、停滞でもある。そしてこの停滞に対して進展があるとすれば、書くことに没頭してそれ以外の全てを放り出している状態に他ならない。自分でエンジンをかけていかなければとは思うのだけれど。