外へ出た途端空気の暖かさに驚く。本当に一月なのかと思うくらい、殆ど春に近いような外気だ。駅へ向かう途中で、生垣の山茶花が枯れ始めているのを見つけて妙な気持ちになった。ぬるい空気に乗って、ガソリンスタンドからオイルの匂いが漂ってくる。それからたばこ。どこで誰が吸っているのだか、ここからは見えない。
駅へ着くと、ホームの壁に大きな窓が取り付けられていることに気づいた。殆ど屋外といって差し支えない駅舎である。一体なんの必要があるのだろうと不思議に思った。窓は大きく開け放たれ、壁の内側と外側とで空気を入れ替えているらしかった。今まで一度も訝しんだことはなかったのに、多分、この季節感のない陽気のせいだろう。見て感じる全てが幻覚のように思える。家の近くまで来た時ふと消毒薬の匂いがした。アルコールの冷たい匂いは今日一番冬に似ていた。
”青痣が残る目の堰が切れた。家の裏、うち捨てられたオイル・タンク、一面の雑草、木の幹。人々が暮らし、去った場所。イーストは涙が涸れるまですすり泣いた。しかし、だからといって、実際には何も変わらないのだ。どんな言葉を聞いても、どんな光景を見ても、どんな思いを抱いても。筋肉のいたずらだ。涙腺が緩んだだけだ。”
Bill Beverly「東の果て、夜へ」早川書房
怒りたい時に怒ったり泣きたい時に泣いたりできたのって何歳ぐらいまでだったんだろうな。やめるとか諦めるとか、そういうスタイルがいつの間にか自分の生き方を上書きしてしまった。そうではなかった時期ってどこだったんだろう。20歳頃には完全に目が死んでいたから、せいぜい17、8かそこらまでかもしれない。いやそんなメンタルで高校進学した気がしない。中学と同時に卒業したかもしれない。15歳とかもう記憶がないよ。でもきっと一瞬の喜怒哀楽に生きるか死ぬかという問題が詰まっていて、目の前の何もかもが美しいか汚いかどちらかだった。思春期って楽しいや。
あれから時が経って、負け惜しみみたいなトライアンドエラーを無数に繰り返して、結果修復不可能なエラーの負債を背負いながら乗りたくもない電車を待つ今を今日も生きてるけど。