やりたいこととやらなくてはならないことと山ほどありすぎるわりにどれもうまく進まないので、一周回ってなにもやりたくない気持ちになっている。本を一冊読むのに一ヶ月かかった。読みたいと思う本もあまりない。日本語原著は相変わらずだめで、いったん翻訳というワンクッションを経た他言語作品ならどうにか、というところ。というか実際は、カズオイシグロしか読んでいない。イシグロの文章はいい。翻訳もいいのだと思う。雰囲気はずっと淡々としている。淡々としていても情緒豊かだ。冷淡でもあり、暖かくもあり、不可解でもある。それはイシグロ作品が「過去」を多く扱うこととも関連があるだろう。が、ともかく、読み手を過度に煽らない文章に助けられている。
最近、オースターを読む人にイシグロをすすめてみた。両者は根底を流れている水のようなものが似ていると思う。そういうニュアンスでしかないところへ、どれだけ同意してもらえるかはわからないが。
人生、いよいよネガティブな事柄しか思いつかないので何か書こうと思うのだが言語化することにあまり意味を見出せない。ともあれ正月が過ぎて良かった。休暇を他人がどう過ごしたか聞いたり聞かれたりする無意味なお喋りに巻き込まれたくない。夏と冬と年に2回もこういうことがあるのはうんざりする。人間に向いていないタイプの人間のことをなんて言うんだったかな。
大人とはなんだろうか、とふと思う。子どもの頃考えていた「大人」は、空に浮かぶ星の名や、道端の草木の名をなんでも知っている人のことだった。生業にこそしていないけれども、私は概ねそういう人生の途中にある。現実的な話、それだけでは到底大人とは呼ばないし、自分自身にしろ、好きだから続けているというだけの話だ。その上、それらを知らなくとも「大人らしさ」には全く関係がない。大人の背中というものがあるとしたら、ただその人の振る舞いであり、生き方に他ならない。私自身が「大人のあり方」について考え続けるのならば、これからどんな選択をしようと、そのことは忘れずにいたいと思う。(副題:いいやつになれ、と霊幻は言った)
モバイルSuicaのクレジット連携をやめた。理由はカードの請求額を見るたびに驚いてしまうからである。一回1万円を月に2回チャージしたらそれだけで2万円も加算されてくるので心臓に悪い。ATMから現金チャージしてその場で精算される方が心の健康には良い(当社比)。
気候が良くなって規制が緩和されて学校へ行く人々、在宅勤務が解除されてしまったのであろう人々、外出を楽しんでいる人々と一緒くたになって毎日電車に乗っている。つらい。多分お互いにそれぞれみんな、つらい。でも私は私の痛みしかわからないから、この3年間在宅と無縁でひと気の少ない東京をひたすら徘徊した(ある種快適な)体験を経て今とてもギャップに苦しんでいます。と言う顔をして電車に乗っている。絶対に立ちたくないから始発駅までわざわざ戻って乗っているんだけど、さすがに我ながら何やっているんだかわからない。もはやなにも。